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視えないものをみる

Don Juan についての考察もどき

ドン・ジュアンとマリアの共闘

ドン・ジュアンは言うまでもなく【父親殺し】の存在である。

 

 

 

その<父>とは

1.父ルイが背負っている”家”、家長父制度の否定

2.法と正義を教え実行する正しき存在としての父の否定

  →本来であれば父ルイの役割のはずだが、これはドン・カルロに割り当てられているように思える。。

3.信仰の対象として父なる神の否定

  →石像である亡霊の役割

 

 

最初の感想として私はドンジュアンについて【母を持たない存在】として書いた。しかしこれは(私が)母の存在を重く見る文化に育った影響から、そう感じてしまったのであって。

もちろん【母】についての描写も希薄と感じる。しかしそれは、<父>について描写を優先させた結果なのかもしれない。

徹頭徹尾、ドン・ジュアンは<父>の否定を重ねている。そこから脱却したいともがいているように思える。

 

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ドン・ジュアンはマリアの自由さを愛していると思える。マリアに理想の女であるとか、完璧な母親像を求めているように見えない。

マリアも、【理想の母親像】を打ち砕く存在として置かれていると思える。聖母ではなく。等身大の女性。

ドン・ジュアンは、<父>なる存在を嫌悪し忌避している。それは、<父>なるものが自分に何かを与えると同時に、同じ分だけ何かを強いる存在だと気付いているからではないか。。

そんな<自由を渇望する>ドン・ジュアンが、自由を体現するマリアに惹かれるのは当然のことで、、その自由の尊さを知るドン・ジュアンが、愛するマリアから自由を奪うとも思えないのである。

 

 

ドン・ジュアンとマリアが惹かれあうのは、亡霊の導きがあったとしてもそれだけではなく、お互いに通じ合うところがあったからではないか。

それは、もちろん従来の価値判断基準に対する反発、そこから感じる息苦しさ、生きづらさ…であろう。

 

だから、あらゆる<父>なるものと戦いつづけていたドン・ジュアンが、マリアの前ではその必要がなく、"みどりご"のように、眠ることができたのだと思う。