視えないものをみる

Don Juan についての考察もどき

円環の息苦しさ

KAATで観劇したとき、まだ裏のモチーフに気づかなかったとき、息苦しく呪われた円環だ、と直感的に思いました。それは死と同時に生命の誕生が添えてあったからです。



生命のやり取り、連続、それ自体から誰も逃れられず、ただ【母を持たない】ジュアンだけがその外にいる、そう結論づけたつもりでした。

 

しかしDCに行ってから変更が行われたようなのはご承知の通りですが(見ることは叶いません)思ったことは「これで理由を人のせいにできなくなる」でした。理由が他者に見えづらくなり、さらに同情されにくくなったのではないかと。

 

 

気分がころころ変わるので、文章を読ませることが好きではないのですが、参考になればと思いご紹介します。

 

ミヒャエル・エンデの「自由の牢獄」を読みました。短編ですのですぐ読めます。歌詞に出てくる【自由という牢獄】とは何かな、と思って。

 

 

マリアが「自由」だったのは自分の意志で「これで最後の仕事にする」と自分に課し、自ら決めたからかな、と思いました。

ジュアンが本当の自由を手に入れるためには愛する人に捕らわれることが必要であったのだなと。

 

何かを否定するということはその「何か」がなくてはならない。つまりそれがなければ「否定」ができないということはそもそも「それ」から本当に逃れた、自由になったということにはならない。

 

自由であるということはこれ以上なく不自由で身動きがとれなくなり、何かに捕らわれることで本当の自由を得ている。

 

「それ」に捕らわれているうちは不自由であると。それを否定してやろうと躍起になっているうちは、それから逃れられない。

 

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そして、舞台から感じた連鎖・円環の息苦しさ。。見方によってはこれ以上なく完成された円環なのかな。

所詮人はそこから逃れることはできず、限られた時間は刻々と過ぎていく。

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それを否定する方法しか持たないうちは、実はそれに強く依存した状態であると。

 

 

全然説明にもなっていないと思いますが、そういうお話です。(自由の牢獄)お読みいただくと面白いと思います。