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視えないものをみる

Don Juan についての考察もどき

引っかかりポイント②

ドン・ジュアン 自己満足なヒント
ルイ父の歌

息子よ 分かり合える日が来るのならば
例えこの目を差し出しても 惜しくはない

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媒介する”しずく”

ドン・ジュアン 重い考察

「彼の汗に濡れるだけであなたを忘れられなくなった」と歌われるが、そんなことはほんとうにあるのだろうか。そう考えてみて、媚薬でも汗に含まれてるの?とか、汗って表現なんだか不潔…と通常の感覚で考えてしまうのはちょっと待って欲しい。

 

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引っかかりポイント①(ドンジュアン)

ドン・ジュアン 自己満足なヒント

ぼつぼつと、私が「引っかかった」箇所の羅列などしてみたいと思います。

 

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タカラヅカという愛の夢(ドンジュアン)

総括的な感想 ドン・ジュアン

結論は一番最後に書こうと思っていたのですが、それまでに積み上げる根拠の多さ、それを果たして全部説明できるかどうか…自信がなくなったので、とりあえず新鮮なうちに単なる感想を書いてみたいと思います。

 

この作品は何だったのかと考えるとき、中の人(舞台上の人)がどう捉えて演じていたのかが気になっていました。

 

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この作品を「私が」見るとき、わりと初期の方から象徴的におかれた"それ"に気を取られて、登場人物の物語として単純に読むことが逆に!できませんでした。

各々の感情に共感したり衝撃を受けたりはするのですが、【全体が意図的に導かれている】ことが見えてしまったので、例えれば天上から人間界を俯瞰しているような感覚に陥りました。(そうでなくてもKAATの上の階は見下ろす風景でした)

そういう意味で私は純粋なドンジュアンの物語として読むことが最初からできませんでした。最初から…全部すぐわかったわけではありませんが、なんとなく残った違和感を考えつづけ、調べて確信する、、そんな感じでした。

 

 

ですから、登場人物の描写がどうであるとか、選択がおかしいとか、そういうことはハナから問題ではありませんでした。それより、元の仏版にはない演出、差異、演出家が手を加えた箇所、その意図を考え、怯えました。

 

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 この作品の結論はずばり【平和への願い、祈りのようなもの】だと思いました。舞台上で展開された物語は虚構の世界のおとぎ話ではなく、紛れもない現実、現代そのものだと思いました。それでもジュアンが赦されたように、愛の夢に眠れるように願うこころ。祈りのようなもの。

そもそも、愛の夢タカラヅカそのものじゃないですか。よくわからないけれど泣きたくなる感動。いまその瞬間、生きているという実感。

 

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私は、ずっと俯瞰した目線で全体を眺めてしまったので、演者の視線がずっと地上しか眺めていないようで、少し不満でした。祈りのようなニュアンス、敬虔さがもうちょっとあっても良いと思ったのです。

しかし、人間の愚かしさ、哀しさこそ描き出されなければならなかった。出演者は決して悟ってはいけなかったんですね。血が通った造形になっていたと思います。

 

 

 

 

*まだ、私がこういう印象を持つようになった根拠を何も説明していませんので、さっぱり要領をえない文章だと思います。申し訳ない。

 

 

 *クライマックスはジュアンの死ではなく、その復活にこそ置かれていると思っています。私にとってはこの作品の印象=バッドエンドではありません。 失われたいのちは2度とは戻らない、普通。仏版だってジュアンは死にっぱなしです!

それが復活しちゃうからこそ畏れ多いし、メッセージが込められている、と受け取りました。

 

 

 

 

 

円環の息苦しさ

ドン・ジュアン 普通の文章

KAATで観劇したとき、まだ裏のモチーフに気づかなかったとき、息苦しく呪われた円環だ、と直感的に思いました。それは死と同時に生命の誕生が添えてあったからです。



生命のやり取り、連続、それ自体から誰も逃れられず、ただ【母を持たない】ジュアンだけがその外にいる、そう結論づけたつもりでした。

 

しかしDCに行ってから変更が行われたようなのはご承知の通りですが(見ることは叶いません)思ったことは「これで理由を人のせいにできなくなる」でした。理由が他者に見えづらくなり、さらに同情されにくくなったのではないかと。

 

 

気分がころころ変わるので、文章を読ませることが好きではないのですが、参考になればと思いご紹介します。

 

ミヒャエル・エンデの「自由の牢獄」を読みました。短編ですのですぐ読めます。歌詞に出てくる【自由という牢獄】とは何かな、と思って。

 

 

マリアが「自由」だったのは自分の意志で「これで最後の仕事にする」と自分に課し、自ら決めたからかな、と思いました。

ジュアンが本当の自由を手に入れるためには愛する人に捕らわれることが必要であったのだなと。

 

何かを否定するということはその「何か」がなくてはならない。つまりそれがなければ「否定」ができないということはそもそも「それ」から本当に逃れた、自由になったということにはならない。

 

自由であるということはこれ以上なく不自由で身動きがとれなくなり、何かに捕らわれることで本当の自由を得ている。

 

「それ」に捕らわれているうちは不自由であると。それを否定してやろうと躍起になっているうちは、それから逃れられない。

 

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そして、舞台から感じた連鎖・円環の息苦しさ。。見方によってはこれ以上なく完成された円環なのかな。

所詮人はそこから逃れることはできず、限られた時間は刻々と過ぎていく。

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それを否定する方法しか持たないうちは、実はそれに強く依存した状態であると。

 

 

全然説明にもなっていないと思いますが、そういうお話です。(自由の牢獄)お読みいただくと面白いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛という呪い(ドン・ジュアン)

ドン・ジュアン 普通の文章

*気づく前に書いた文章
*KAATの感想です。

 

呪いを考えるときに、「一番短い、身近な呪(しゅ)として「名前」」を思います。夢枕獏さんの『陰陽師』において「名前はこの世で一番短い呪」という言葉が出てくるからですが。

父ドン・ルイ・テノリオも「お前が私の名を継ぐとき」と言い、ドン・ジュアンは「俺の名前を望むならば刻み付けてやろう」というようなことを言います。名前はそれだけで定義し、縛る力を持っていると言えます。

「呪(しゅ)」という字面では不吉なイメージですが、よいことも悪いこともどちらもある、単純に物事を縛る、そこに留めるちから、そういうイメージです。

 

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